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ディープ・ソウル・シンガーLEOの音楽日記
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楽SOUL - 素晴らしきシングル盤の世界
rakusoul.jpg『素晴らしきシングル盤の世界』、などと知ったようなことを書いてしまったが、私のように、ソウルの世界をシングル盤まで丹念に追いかける根性のない者が果たして軽々しくそんなことを言ってもよいものか迷うぐらい、むしろ、はっきり言って、猫に小判、豚に真珠、といった種類の本ではある。(苦笑)

でもね、こういう本は、買い逃して絶版になってしまったら二度と手に入らない性質のものなので、何が何でも買おうと思っていた。第一、色とりどりの美しいレーベルの写真とかがたくさん載ってる表紙見てるだけでもワクワクしちゃうじゃない(笑)。

そして、もちろん他所で聞いてきたシングル盤の話がチンプンカンプンな時は、辞典代わりにも使えるし!(笑)

■ 楽SOUL / RAKU SOUL  佐野勝明 著 (自主出版/楽SOUL)

2008年4月10日発売。
いわゆる“シングル盤コレクター”と呼ばれる方々の口から、再三再四、噂を聞いていた Sound Off というソウル・シングル盤を紹介するミニコミ誌。その存在だけは知っていたものの、実際には見たことがなかった。 これを書いておられたのが佐野勝明氏であり、今回の楽SOUL は、それらの記事をまとめ、さらに加筆して出来上がった、そして私のような一般人(笑)の手にも届く形で出版された本なのである。

詳しい専門的な内容については、きっとシングル盤に詳しい同類の方たちが、あちこちで書かれているはずなので、そちらをどうぞ(笑)

ということで、4月に入ってから一部の人の間で話題騒然になっていたのを気にしつつ、いつどこで手に入れようか、と思っていたところ、ちょうどこの本の出版記念を兼ねた、とあるレコード・コンサートにお誘いをいただいた。これこそ、ご縁である。ということで、先週、気合入れて行って参りました。そして、著者ご本人から無事購入させていただきました♪

『ソウルはシングル盤を聴かなきゃお話にならない』
前書きは、佐野氏のこの言葉から始まる。
そうなのだ。シングル盤って、マニアックな収集品(という意味も十分にあるけど/笑)という位置づけというより、素晴らしいのに、何かの理由で売れなかったり、アルバムを出すには至らなかった人たちの音楽を知る唯一の手だてなのだ。何枚かのシングル盤だけ出してアルバムなんか出せずに消えていったような人たち…。そして、B級ものが好きな私などは、案外、非常に相性のいい大好きな人がこういう中に混ざっていたりする。千載一遇の出会いだったりするのだ。

…って偉そうなこと書いちゃいましたね。
えーと。私は基本的にはシングル盤を集めていません。ase.gif
でも、その素晴らしさ、貴重さ (値段だけじゃなく) については、よくわかっているつもり。

シングル盤を集めるっていうのは、とにかく、根気/根性がいるのだ。もちろんお金もだけど。
新譜のアルバムのように、どこへ行けば、決まった値段で必ず買える、というものではない。だからこそ、この佐野さんのように、丹念に集めたレコードの記録を惜しげもなく、また、労力も厭わずまとめて下さる方には、心の底から感謝と敬意の念を表したい。
ちなみに、ここに掲載されているのは、いわゆる deep soul、と言われる、濃い目のソウルが多いです。
私が一番好きなあたりよ 。おほほ。


さて。全部なんてとても一度には読みきれません。(爆)
特に、男性シンガーについては、かなり量も多いし、いきなりは無理。
ということで、まずはレディー・ソウルの部を。
うひひ。結構私も持ってる盤や、いろいろな専門家の方々の“ご好意”で聴かせていただいたことがある曲が多くて嬉しい。もちろん聞いたことすらない名前も…。そうか。これを頼りに端から探すか…。いかん。嘘です。私まで、地獄に落ちそうですtara.gif
そして、後半のCDの部。
レディーソウル物、ニューオリンズ物など、必要そうなのものは、既にちゃんと自分が押さえてあるのがわかって一安心。 …ワタシ ハ マチガッテ ナカッタ…(笑)。そして、CDについては、まだ購入可能なものが多いので、見たことないものでも、ガイドとして活用できそうだ。ウレシイ♪

ただひとつだけ、残念なのは、目次や索引がないこと(笑)。
いやいや、この量をお一人でまとめられたのですから、無理もないこととは思いますが。
てなことで、自分の便利のために、目次代わりを以下に書き出してみました。
第一部の Deep Soul 45 は、シンガーABC順シングル盤。1ページに4~8点位ずつ。
第二部の CD Selection は、濃い系のCDばかり(笑)、1ページに2~4点位ずつ。
んーー。すごい量だ~!



■Deep Soul 45 ページ
 ・MALE 4 ~ 135
 ・FEMALE135 ~ 159
 ・DUO159 ~ 168
 ・GROUP169 ~ 197


■CD Selection ページ
 ・DEEP SOUL TREASURES198 ~ 200
 ・UK KENT ORIGINAL COMPILATION200 ~ 204
 ・ATLANTIC & OTHERS COMPILATION204 ~ 214
 ・GOLDMINE & OTHERS COMPILATION214 ~ 221
 ・MEMPHIS - GOLDWAX, HI & OTHERS221 ~ 233
 ・MEMPHIS - STAX / VOLT233 ~ 241
 ・ALABAMA - MUSCLE SHOALS & OTHERS241 ~ 255
 ・GEORGIA - ATLANTA, MACON & OTHERS255 ~ 259
 ・FLORIDA SOUL259 ~ 262
 ・NASHVILLE - SOUND STAGE 7 & OTHERS262 ~ 277
 ・NEW ORLEANS277 ~ 285
 ・MALACO285 ~ 288
 ・LOUISIANA - SHREVEPORT & OTHERS288 ~ 293
 ・TEXAS & OTHERS293 ~ 297
 ・CHICAGO SOUL297 ~ 306
 ・SOUNDS OF DETROIT306 ~ 318
 ・WEST COAST - MODERN & OTHERS318 ~ 335
 ・NEW YORK & EAST COAST335 ~ 346
 ・NORTHERN SOUL346 ~ 356



さて、この本、自主出版とのことなので、手に入れたい方は、佐野さんがDJをされるレコードコンサートを探して出かけて直接売っていただくか、ソウルに強いCDショップで探すか、または以下の通販などでどうぞ!
* アマゾンはコチラ   * HMVはコチラ   * disc unionはコチラ

【追記 2008.7.4】 佐野さんによる楽ソウルブログも開設されました。 →コチラ
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歌うネアンデルタール (2006)
 なぜこんなに60~70年代のイナタいSoulが好きなのか。
我ながら不思議でならなくて、歌い始めてからこのかたずうぅぅ~っと考えているのだ。
現時点で流行っている音楽ではなく、青春時代に実体験としてこの音楽のシャワーをあびたわけでもなく、家族や親戚にフリークがいたわけでもなく、それなのに私だけいきなりこの種の音楽にはまり込んでしまった理由が見当たらない。
 相性、嗜好、と言ってしまえばそれまでだけど、そもそも、何かを好きになる“嗜好”というものが、どうやって形成されるのか、ということにすごく興味がある。理由がわからなくても好きではいられるけれど、やはり、少しでもその理由がわかれば、もっと安心できるかも。確信をもてるかも。第一、別に、ひねくれて、他人と違うモノを好きになろうとしてるわけでもないのに、何で私は世の中で主流な趣味をもてないのか、やるせないじゃないのよ。


 ということで、『太古の地球は音楽に満ちていた』 の大きな帯文字に惹かれて、思わず手に取ったのがこの本。

『歌うネアンデルタール -音楽と言語から見るヒトの進化-』
 スティーヴン・ミズン著 早川書房(2006)


帯に「認知考古学の第一人者が先史時代の歌声を再現する」とある。もしやして、ある特定の音楽を嗜好する性癖って遺伝子のどこかにインプットされてるのか ? という期待のもとに読み始めた。

 ネアンデルタール人が歌う文化を持っていたかをどう証明するのか、半信半疑でもあったのだが、結論から言うと、やっぱり、そのあたりは仮説に次ぐ仮説による推論で、ちょっとスッキリしない。
 とはいえ、考古学、人類学、動物行動学、発達心理学、脳神経科学など、400以上の参考文献を引用して多角的に推論を進めているので、その論拠となっている様々な実験結果などにはかなり興味深いものもあった。ダーウィンに始まり、2004年の研究成果まで拾ってあるので、この分野での研究の動向がひとわたり総覧できる感じである。

 ネアンデルタールたちが、十分な脳容量とある程度のバラエティに富んだ発声を可能にするのに十分な喉頭構造を持っていたという考古学的傍証をもとに、太古、言語(単語や文章)が成立する以前にコミュニケーション方法があったとすれば、それは音楽によるものだったのではないか、というのが本書の論旨。ただし、この場合の“音楽”とは、現代の私たちが考えている文化現象としての音楽ではなく、初期ホミニドのコミュニケーション体系(原型言語)として、ミズンは音楽と言語の単一の先駆体である“Hmmmmm”を提唱する。

“Hmmmmm”とは、『全体的、多様式的、操作的、音楽的、ミメシス的 (Holistic multi-modal manipulative muscical mimetic)』の頭文字で、各用語はおおよそ以下のようなことを意味している。
 全体的=ひとかたまりの音声が全体としてメッセージを伝えるもので、単語で構築されていない
 多様式的=音声だけでなく身振りなども伴う
 操作的=指示によるのではなく、聞き手に何らかの反応を引き起こす
 音楽的=リズムやメロディーやを多用する
 ミメシス=意図的ではあるが言語的ではない表象行為を意識的、自発的におこなう能力

 私が最初に期待したように音楽論に切り込むというよりは、どちらかといえば、言語学的知見に基づいて展開されるのだが、『音楽と言語の酷似点と相違点』、『言語の構造』に関する先行研究の概説はなかなか面白かった。前言語の段階でのコミュニケーション体系は、現代のような、“単語がまずあってそれを文法により繋ぎ合わせて文章をつくる(構成的)”という形ではなく、“フレーズ全体として相手に何らかの行動を起こさせるための音の連なり(全体的で操作的)”という形で存在したのではないか、というアリソン・レイの説を下敷きにしているのである。
 例えば、「彼女にそれを渡せ」を意味する「テビマ」という発声と、「彼女とそれを分けろ」を意味する「クマピ」という発声があった場合、全体的、操作的なコミュニケーションの場合は、共通する音声「マ」が、それぞれの文章に共通の単語、「彼女」を意味するわけではない(原文ママ。英文の場合)が、この3つの音がそろえばそのままメッセージが伝わるという形式である。
 これは、「犬が人を噛む」と「人が犬を噛む」の2つの文章において、それぞれ同じ単語を使用しながら、その並び順(文法)によって意味が全く変化する“構成的な”言語とは異なる。この特徴は、並び合う音の順列に、さして厳格な規則を求めない音楽のようだというのだ。

 一方で、音楽サヴァン(自閉症)、失音楽症患者などを対象とした主に脳生理学、発達心理学などの研究結果からは、音楽のヒトへの影響のさまざまな側面がまとめられている。
 私にとって面白かったのは、ピッチを調に変換できないとメロディの把握は不可能になる; 和声・メロディ・リズムの処理に関わる脳の部位はそれぞれ異なり、また、その活性部位は音楽家-非音楽家で異なる; 乳幼児に対して用いる大人の語りかけ(IDS)は、国籍を問わず共通して独特の音楽的なイントネーションやピッチをもつ(ただし、日本語では、その変化量は小さい); 音楽は良好な気分を誘発することで、協調性と助け合いを強める、などなど。
 また、絶対音感についても取り上げられており、メロディを絶対音感でしかグループ化できない人は歌のキーが違えば、同じ曲だということに気づかないことから、絶対音感への過度の依存は、言語学習に不利に働く(女性と男性で声のピッチが異なるせいで、同じ単語と認識できなくなる)可能性があり、このため、子供から大人になるにつれての言語学習においては相対音感によるピッチ認識が便利で、絶対音感はむしろ妨げになることから、この過程で脱学習されると説明されている。ふ~む。そうなのか。

 しかし、これらのヒトや霊長類について得られた知見が、ネアンデルタールにあてはまるものであったのかを証明するにはまだ大きな溝がありそうだし、私としては、これらの応答がどこまで遡れるのか、ということに興味があったのだが。また、言語でないならば、音楽のどの要素がどのような“操作性”を有していたのかということには言及されておらず、肝心な点で考察がやや浅い感が否めない。

 そんなこんなで、一読した印象として、私には著者のミズン氏、せっかく音楽という要素を取り上げてみはしたものの、彼自身、今一つ音楽に対する造詣が深くない点に限界があるのではないかと思えてならない。ミズン氏の捉える音楽とは、あまりに西洋音楽に限定されすぎていて平叙で単純だ。

 例えば、後半の9~14章には音楽のタイトルがからめてある。
ウォーター・メロンマン(ハービー・ハンコック作)
 ― 狩を成功させてキャンプへ戻るホモ・ハイデルベルゲンシスの一団
カインド・オブ・ブルー(マイルス・デイヴィス)
 ― 夕暮れどき、馬肉を堪能してから木に守られて休むホモ・ハイデルベルゲンシス
ニーナ・シモンの歌う≪フィーリン・グッド≫
 ― ブロンボス洞窟で貝殻のビーズを身につけボディペインティングをして上機嫌のホモ・サピエンス

 Hmmmmmの存在を唱えるにあたり、こんな個人的な感傷による安易な当て嵌めはいかがなものか、とちょっと違和感。各章を執筆していた時にイマジネーションを掻きたてるのに最適なだったBGM、というならそれまでだが、それにしても、最初、タイトルだけを読んで、各曲に代表される何らかの音楽要素とネアンデルタールの生態との関連が語られるのか、と大いに期待してしまったのだった。まあ、原型言語の呼称として、ハミングを思わせるHmmmmmという命名をするところなど、あざといことを狙う性癖はありそうな人なのではあるのだけど。

 え~と…。あれこれ書いたが、この本を読んで、色々興味が湧いたのも確か。参考文献を当たって、さっそく関連書を2冊購入、気になる論文についてもあたってみようかと思っている。これで、音楽というものがわかるようになるわけではないのだけれど、しばらくこの傾向の読書が続きそう。


George Weidenfeld& Nicholson
(2005)

Harvard University Press
(2006)
 余談だが、この本のカバー・デザインについて、とある書評で、原書のデザインは品がなく、この邦訳本のデザインの方が美しい、なんていうことが書いてあったので、調べたら、2005年の初版(George Weidenfeld & Nicholson社刊)、に加え、2006年発行のHarvard University Press版もあった。その品のないデザイン、というのが、どちらを指すものかわからないけど、私だったら、初版のGeorge Weidenfeld & Nicholson社刊の表紙が好きだな(内容を誤解させることは間違いないけど)。品、とか、美しい、とかっていう感覚も、何を根拠に発生するのか知りたいところだ。
『新編 どどいつ入門』 中道 風迅洞 著
* 立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花 
* ざんきり頭を たたいてみれば 文明開化の 音がする


dodoitu.jpg
 どどいつは、都都逸 都々一とも言われ、江戸時代ぐらいに発祥。七、七、七、五の二十六文字が基本。時に5文字の初句をつけて五、七、七、七、五 の時もある。戦前までは都々逸といえば芸者さんが三味線をひきながらお座敷で唄う余興の芸、俗謡であった。今でも、寄席とか、テレビの“笑点”で、句頭の頭文字の折り込みでみられることがある。

 私は短歌や俳句には全く興味がないが、どどいつに惹かれるのは、多分、その歌に近いリズムと、艶話っぽい内容のせいかな。情念のあり方がちょっとSOULっぽいさ。数年ぐらいのサイクルで、ふと思い出して、どどいつ関係の本を探してきたのだが、これまでは手にする機会がなかった。今回、新聞で新刊本の広告を見つけて、即座にゲット。著者はNHKのラジオで、「現代どどいつ講座」として、一般から投稿をつのる番組を長年やっている人らしく、そういえば私もタクシーの中で何度か聴いたことがある。

 個人的にはあんまり現代っぽくない歌の方が好きだけど、新旧とりまぜて、まずは私が気に入った句をどうぞ。もっとヤバイものを見たい人はこの本ほか、関連書を買って下さい。

* お名は申さぬ 一座の中に 命あげたい 方がいる
* 岡惚れしたのは 私が先よ 手出ししたのは 主が先
* おろすわさびと 恋路の意見 きけばきくほど 涙出る
* 小指切らせて まだ間もないに 手まで切れとは 情けない
* いやなお方の 親切よりも 好いたお方の 無理がよい
* ぬしと私は 玉子の仲よ わたしゃ白身で きみを抱く
* 惚れた数から 振られた数を 引けば女房が 残るだけ
* うちの亭主と こたつの柱 なくてならぬが あって邪魔
* あきらめましたよ どう諦めた あきらめきれぬと あきらめた

[五初句付き]
* あの人のどこがいいかと尋ねる人に どこが悪いと問い返す

中には、使う文字に制限をかけたものもある。落語家がよくやる言葉遊び。
【数字折り込み】
* 主は二十一 わしゃ十九 四十仲良く 暮らしたい
* 男五人もちゃ五五二十五日 あとの五日は だれと寝る
* 一寸も 離れまいぞと 思うた仲は 主も五分なら わしも五分


【折り込み】 [例: 頭文字が、つゆあけ]
* つめたい人でも夢には通う 逢瀬(あうせ)願って消すあかり

【決め字】[例: 頭文字がほほほほ]
* 本気で言われりゃ本気で聞くが 本気にゃ聞こえぬ褒め言葉 

================

 さて、都都逸の七、七、七、五という音の並びは、日本人のリズム感、ひいては日本の古い歌謡と密接な関連がある。現に多くの民謡のリズムはこれなんだそうだ。言われてみれば目からウロコ。

* 土佐の高知の はりま屋橋で~ 坊さんかんざし 買うを見た
* 会津磐梯山は 宝の山よ 笹に黄金が なり下がる
* ニシン来たかと カモメにとえば 私ゃ立つ鳥 波に聞け
 

 三三七拍子もそうだが、三とか七とか五とか、西洋音楽にはないリズムが日本人にしっくりするのはどういうことか、と常々思っていたが、この本におもしろいことが書いてあった。
 基本は“四拍子”だというのである。発音部の数は五やら七やらだが、日本人が声を出して読めば自然に休符が入り四拍子になるというのだ。(以下、△は休符を示す)。

* △ニシン 来たかと カモメに とえば△ 
 △私ゃ  立つ鳥  △△波  に~聞け(チョイ)

つまり8小節でうまくおさまるんである。そう考えてみると、三三七拍子も休符入れると4拍くぎりになるね。

チャ・チャ・チャ・△、 チャ・チャ・チャ・△、
チャ・チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・△

お~ ! すげ~っ ! ちゃんと割りきれてる !

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