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ディープ・ソウル・シンガーLEOの音楽日記
歌うネアンデルタール (2006)
 なぜこんなに60〜70年代のイナタいSoulが好きなのか。
我ながら不思議でならなくて、歌い始めてからこのかたずうぅぅ〜っと考えているのだ。
現時点で流行っている音楽ではなく、青春時代に実体験としてこの音楽のシャワーをあびたわけでもなく、家族や親戚にフリークがいたわけでもなく、それなのに私だけいきなりこの種の音楽にはまり込んでしまった理由が見当たらない。
 相性、嗜好、と言ってしまえばそれまでだけど、そもそも、何かを好きになる“嗜好”というものが、どうやって形成されるのか、ということにすごく興味がある。理由がわからなくても好きではいられるけれど、やはり、少しでもその理由がわかれば、もっと安心できるかも。確信をもてるかも。第一、別に、ひねくれて、他人と違うモノを好きになろうとしてるわけでもないのに、何で私は世の中で主流な趣味をもてないのか、やるせないじゃないのよ。


 ということで、『太古の地球は音楽に満ちていた』 の大きな帯文字に惹かれて、思わず手に取ったのがこの本。

『歌うネアンデルタール -音楽と言語から見るヒトの進化-』
 スティーヴン・ミズン著 早川書房(2006)


帯に「認知考古学の第一人者が先史時代の歌声を再現する」とある。もしやして、ある特定の音楽を嗜好する性癖って遺伝子のどこかにインプットされてるのか ? という期待のもとに読み始めた。

 ネアンデルタール人が歌う文化を持っていたかをどう証明するのか、半信半疑でもあったのだが、結論から言うと、やっぱり、そのあたりは仮説に次ぐ仮説による推論で、ちょっとスッキリしない。
 とはいえ、考古学、人類学、動物行動学、発達心理学、脳神経科学など、400以上の参考文献を引用して多角的に推論を進めているので、その論拠となっている様々な実験結果などにはかなり興味深いものもあった。ダーウィンに始まり、2004年の研究成果まで拾ってあるので、この分野での研究の動向がひとわたり総覧できる感じである。

 ネアンデルタールたちが、十分な脳容量とある程度のバラエティに富んだ発声を可能にするのに十分な喉頭構造を持っていたという考古学的傍証をもとに、太古、言語(単語や文章)が成立する以前にコミュニケーション方法があったとすれば、それは音楽によるものだったのではないか、というのが本書の論旨。ただし、この場合の“音楽”とは、現代の私たちが考えている文化現象としての音楽ではなく、初期ホミニドのコミュニケーション体系(原型言語)として、ミズンは音楽と言語の単一の先駆体である“Hmmmmm”を提唱する。

“Hmmmmm”とは、『全体的、多様式的、操作的、音楽的、ミメシス的 (Holistic multi-modal manipulative muscical mimetic)』の頭文字で、各用語はおおよそ以下のようなことを意味している。
 全体的=ひとかたまりの音声が全体としてメッセージを伝えるもので、単語で構築されていない
 多様式的=音声だけでなく身振りなども伴う
 操作的=指示によるのではなく、聞き手に何らかの反応を引き起こす
 音楽的=リズムやメロディーやを多用する
 ミメシス=意図的ではあるが言語的ではない表象行為を意識的、自発的におこなう能力

 私が最初に期待したように音楽論に切り込むというよりは、どちらかといえば、言語学的知見に基づいて展開されるのだが、『音楽と言語の酷似点と相違点』、『言語の構造』に関する先行研究の概説はなかなか面白かった。前言語の段階でのコミュニケーション体系は、現代のような、“単語がまずあってそれを文法により繋ぎ合わせて文章をつくる(構成的)”という形ではなく、“フレーズ全体として相手に何らかの行動を起こさせるための音の連なり(全体的で操作的)”という形で存在したのではないか、というアリソン・レイの説を下敷きにしているのである。
 例えば、「彼女にそれを渡せ」を意味する「テビマ」という発声と、「彼女とそれを分けろ」を意味する「クマピ」という発声があった場合、全体的、操作的なコミュニケーションの場合は、共通する音声「マ」が、それぞれの文章に共通の単語、「彼女」を意味するわけではない(原文ママ。英文の場合)が、この3つの音がそろえばそのままメッセージが伝わるという形式である。
 これは、「犬が人を噛む」と「人が犬を噛む」の2つの文章において、それぞれ同じ単語を使用しながら、その並び順(文法)によって意味が全く変化する“構成的な”言語とは異なる。この特徴は、並び合う音の順列に、さして厳格な規則を求めない音楽のようだというのだ。

 一方で、音楽サヴァン(自閉症)、失音楽症患者などを対象とした主に脳生理学、発達心理学などの研究結果からは、音楽のヒトへの影響のさまざまな側面がまとめられている。
 私にとって面白かったのは、ピッチを調に変換できないとメロディの把握は不可能になる; 和声・メロディ・リズムの処理に関わる脳の部位はそれぞれ異なり、また、その活性部位は音楽家-非音楽家で異なる; 乳幼児に対して用いる大人の語りかけ(IDS)は、国籍を問わず共通して独特の音楽的なイントネーションやピッチをもつ(ただし、日本語では、その変化量は小さい); 音楽は良好な気分を誘発することで、協調性と助け合いを強める、などなど。
 また、絶対音感についても取り上げられており、メロディを絶対音感でしかグループ化できない人は歌のキーが違えば、同じ曲だということに気づかないことから、絶対音感への過度の依存は、言語学習に不利に働く(女性と男性で声のピッチが異なるせいで、同じ単語と認識できなくなる)可能性があり、このため、子供から大人になるにつれての言語学習においては相対音感によるピッチ認識が便利で、絶対音感はむしろ妨げになることから、この過程で脱学習されると説明されている。ふ〜む。そうなのか。

 しかし、これらのヒトや霊長類について得られた知見が、ネアンデルタールにあてはまるものであったのかを証明するにはまだ大きな溝がありそうだし、私としては、これらの応答がどこまで遡れるのか、ということに興味があったのだが。また、言語でないならば、音楽のどの要素がどのような“操作性”を有していたのかということには言及されておらず、肝心な点で考察がやや浅い感が否めない。

 そんなこんなで、一読した印象として、私には著者のミズン氏、せっかく音楽という要素を取り上げてみはしたものの、彼自身、今一つ音楽に対する造詣が深くない点に限界があるのではないかと思えてならない。ミズン氏の捉える音楽とは、あまりに西洋音楽に限定されすぎていて平叙で単純だ。

 例えば、後半の9〜14章には音楽のタイトルがからめてある。
ウォーター・メロンマン(ハービー・ハンコック作)
 ― 狩を成功させてキャンプへ戻るホモ・ハイデルベルゲンシスの一団
カインド・オブ・ブルー(マイルス・デイヴィス)
 ― 夕暮れどき、馬肉を堪能してから木に守られて休むホモ・ハイデルベルゲンシス
ニーナ・シモンの歌う≪フィーリン・グッド≫
 ― ブロンボス洞窟で貝殻のビーズを身につけボディペインティングをして上機嫌のホモ・サピエンス

 Hmmmmmの存在を唱えるにあたり、こんな個人的な感傷による安易な当て嵌めはいかがなものか、とちょっと違和感。各章を執筆していた時にイマジネーションを掻きたてるのに最適なだったBGM、というならそれまでだが、それにしても、最初、タイトルだけを読んで、各曲に代表される何らかの音楽要素とネアンデルタールの生態との関連が語られるのか、と大いに期待してしまったのだった。まあ、原型言語の呼称として、ハミングを思わせるHmmmmmという命名をするところなど、あざといことを狙う性癖はありそうな人なのではあるのだけど。

 え〜と…。あれこれ書いたが、この本を読んで、色々興味が湧いたのも確か。参考文献を当たって、さっそく関連書を2冊購入、気になる論文についてもあたってみようかと思っている。これで、音楽というものがわかるようになるわけではないのだけれど、しばらくこの傾向の読書が続きそう。


George Weidenfeld& Nicholson
(2005)

Harvard University Press
(2006)
 余談だが、この本のカバー・デザインについて、とある書評で、原書のデザインは品がなく、この邦訳本のデザインの方が美しい、なんていうことが書いてあったので、調べたら、2005年の初版(George Weidenfeld & Nicholson社刊)、に加え、2006年発行のHarvard University Press版もあった。その品のないデザイン、というのが、どちらを指すものかわからないけど、私だったら、初版のGeorge Weidenfeld & Nicholson社刊の表紙が好きだな(内容を誤解させることは間違いないけど)。品、とか、美しい、とかっていう感覚も、何を根拠に発生するのか知りたいところだ。